北海道の“保育運動の20年”保育・子育てをめぐって

 北海道の保育合研集会が 20 回目(注・1995年)を迎え,第 1 回集会のよびかけ人であり,20 回の集会と北海道の保育白書の編集にもかかわってきた小出まみさん(名寄短大教授(注・当時)と矢島満子さん(札幌ゆりかご保育園園長)の,北海道の“保育運動の 20 年”について対談です。

1995「北海道の保育白書」(北海道保育団体連合会)より

北海道の“保育運動の 20 年”
保育・子育てをめぐって

矢島
 小出さんと最初に出会ったのは・・・

小出
 もうかれこれ 25 年かなぁ。北海道に引っ越して(1970 年)きてすぐだから・・・

矢島
 その頃からの 5 年ほどが,北海道の保育合研の前史ってわけよね。


前史
なければ作るの時

矢島
 その頃私は,産休あけの共同保育を始めて 3 年目。そろそろ認可をめざして運動中だったの。法人の設立に向けて理事さん探しで北大の教育学部の研究室にでかけて,そこで小出さんを紹介されて。それからのつきあいですね。

小出
 私は誰も知る人のいない町に来て,誰かとつながりたかった。認可保育園をめざす動きがあって,理事のなり手を探していると夫の職場の先輩から聞いてかけつけて・・・

矢島
 お互い自分の子育て真っ最中,「主婦」から,何か仕事をみつけたいと探り始めた頃よね。ゆりかごの仕事を始めたといっても運営が大変で,二人の保母さんの給料の支払いで精いっぱい。私の賃金は最初 30 分ぶん位だったの。

小出
 へェー! そうだったの・・・

矢島
 子どもたちの数もだんだん増え,仕事の時間も 2 時間, 3 時間・・・ 6 時間と延ばしていったの。いよいよ認可が決まって「 8 時間働くよ」とダンナに言ったら。やはり抵抗があったみたい。まだ共働きが定着していなかったから・・・

小出
 私は上が小学校 1 年,この地で保育園を出たわけでないから友だちもいない,すぐにも学童保育をつくらなければならなかったの。定職探しの一方でね。

矢島
 それが中の島の共同学童保育「かぜのこクラブ」になったのよね。

小出
 羊ヶ丘にその前からできていた学童保育と連絡をとって,行政への運動を開始して,やがてこれが札幌学保連になっていったし,共同の学童保育づくりが続々と各地に飛び火していったの。

矢島
 当時,保育料がはねあがって,私たちはどちらも「共働き」というほどの収入がなかったけれど,ともに市への保育料を不払いしてたたかうという歴史的な運動に参加していったのでしたね。あの時とうとう最高階層の保育料を下げさせた。

 保育料を2年間ほど不払いしたからといっても,その運動に参加した人たちは不払い分を供託という形をとってためておいて,値下げが決まった時,市にそっくり支払ったでしょ。でも中には不払いのままの人も出て,このことがその後の保育運動にカゲを残したのは残念だったなぁ。でもこれ以後,値上げ幅が少なくおさえられてきたのはこの運動の成果だったと思うよ。

小出
 市内の幅広い園の父母を結集した運動でしたよね。みんな仕事を持ちながら夜の会議を重ねて作戦をねって・・・。

矢島
 父母のエネルギーはそのあと,生牛乳を給食に,予備保母の配置を,長時間保育の実施を,など保育内容の改善を親の要求としてまとめて,行政にぶつける力を持っていましたね。

小出
 認可保育園づくりの時の親のエネルギーもすごかった。はじめてゆりかご共同保育所に行った時,北区のあのかいわいの地図に「ひよこ」だか「めだか」だか,クラスの名前らしきものが書き入れてあって,何なのかと思ったら,クラスの親が地域割りをしてしらみつぶしに空き地を探していたんですってネ。驚いたわ。

矢島
 そうこうして 1973 年に認可のゆりかご保育園が誕生,これは共同保育からの認可づくりの道内第 1 号で,そのあと,はとポッポ,雪ん子,と続いていくわけで,みんなの力で保育園を作りだす運動の高揚期でした。

小出
 私もそんな保育園ができるのならとその年 3 人目を生んだわけ。(笑)

矢島
 それやこれやの運動が,札幌だけでなく全道各地にも芽生えてきて,お互いに連絡をつけ助け合う運動が高まっていたのよね。札幌の私たちのところへの相談も多くなっていたし,学習会に呼ばれたりもしたし。でも私たちも全道のようすはよくはわからなかったわね。

小出
 全国保育合研という,熱気ムンムンの大きい集会が 1969 年から毎年,夏,開かれていて,それに北海道各地から出た人たちが現地で交流したりしているうちに,こういう集会の道内版を北海道でもやろう!ってことになって。

矢島
 そう,それが 1976 年!

北海道保育合研の誕生
知らないことばかりだった

小出
 考えられる限りの保育関係の研究・運動体に誘いかけて手を結んで開きましたよね。

矢島
 札幌だけでなく全道のね。各地で運動が起き,運動を進めるためにも他の経験と交流しあい学びあうことを互いに切実に求めていたときでしたから。

小出
 期待も大きかったのよね。飛行機で参集した人もいて北海道の広さを再認識したのもあの時だった。

 初期の集会は「記念講演」という人集めに有利なスタイルをあえてとらず,ひたすら北海道の保育事情,情勢を学び合うことにこだわったものでした。

矢島
 集会もやろう,白書も作ろう,って欲張りスタイルでの合研運動でした。

小出
 保育白書を出したのは,全国版よりわずかに北海道の方が早くて,先駆けてとなったことは誇っていいと思います。北海道はとにかく大きすぎて,都市の問題から過疎の問題まで,いわば何でもあるという風で,私たち自体よく見えない。中でも,全国調査で見ると幼稚園・保育園を合わせた保育率が人口比で一番低いのが北海道で,一体その実体はどうなっているのか明らかにしたいという気持ちが強かったの。だから季節・へき地保育園の実態とか,水産加工場の職場保育園のようすとかにこだわって調べたりしたわね。

矢島
 それを全道集会でも報告して学習して・・・

小出
 網走管内のへき地保育所の保母さんが「私たちは 2 人で何から何まで,例えば煙突掃除からくり取りまでしなければならないのです」なんて実情を報告するのなんか,びっくりして聞いたのを今も鮮明に覚えていますよ。

矢島
 あの頃は本当によく集まって議論や学習もしたし運動もしたわよね。土・日でもね。

小出
 専従者もいない,事務所も持たないなかで,集会と白書の両方を準備したんだものね。成人した子どもに「ぼくの子ども時代の思い出に母親の姿は少ない」と今になって批判されたりしている・・・

矢島
 保育園でも何時間でも会議をして議論をして。あげくの果てに職業病がたくさん出たりした苦い経験もある。働きすぎが当然みたいだったのかなと今にして思うけど。

小出
 子どもは「職業病」にはならなかったけれど,あの頃の子どもには随分大変な思いをさせていたかもね・・・

矢島
 そういうことに気づくゆとりもなかったようね。道なき道をかきわけて前進するので手いっぱいで,自分の子どもたちとゆっくり触れ合ったり育ちを確かめたりの余裕がなかった。

小出
 その前の時代のような「乳児の集団保育,是か非か」といった議論をとりあえず抜けだしたころで,集団のなかでたくましく育つ子どもの姿,友達と楽しく過ごせる子ども時代,そんなものになんだかとても確信を持ち始めていたしね。

足元をかためる
子どもの育ち,おかしいぞの時代

矢島
 80 年代にはいると子どもの育ちのおかしさが吹き出してきましたね。

小出
 病気とか障害とかでないのに,からだがなんとなくおかしいとか生活リズムのくずれとか。アレルギーが急増したのもこの頃からだったし。

矢島
 全国的に指摘されていることが,北海道でもやはり起きていたのよね。
 「手が虫歯」なんて言われると,自分のところでは手指を使う保育を一生懸命やっているからウチは大丈夫なんて思いがちだけど,やっぱり大きい流れとしてはどこも例外ではありえなかったのです。

小出
 子どもの生活調査なんかが全国的に取り組まれたけれど北海道でもそういう子どもの育ちの姿,自分たちのしている保育,子育てにもっと目を向けようという時期に移っていったのかなぁ。決して保育運動がなくなったわけでなく,毎年出されてきた北海道の保育白書を見ても,無認可保育園,学童保育,保育料問題,それに国の保育政策の後退を許すなという全国レベルでの運動,などがずっと継続して取り組まれてきたのがわかるんだけど。

矢島
 力点は足元を固める方に移りましたよね,確かに。

小出
 手放しの集団保育礼讃ではなくなって,もっとていねいに,どんな保育・育て方で,どんな力がつくのか,吟味していかなければ,と。なんでも「みんないっしょ」で集団ってイイナ式の荒っぽい保育もあったと思うけど,この時期,もっと一人ひとりを大事にするということをつきつめて考えよう,一対一のかかわりを集団保育の中でも大事にすべき場面がある,などが強調されだしたのですね。

矢島
 そう。元気いっぱい動き回っていればいいと思っていた時期もあったけれど,じーっと耳をかたむけて人の話を聞くこともとても大事なんだと気がついたのが 10 数年前から,先ず子どもの話を大人がじっくり聞いてあげようと園目標にかかげてきたわけ。先ず大人が変わらなきゃ,子どもは変えられないものね。

小出
 障害児の保育にしても,初期は「みんなの中にいると刺激を受けて変わる,みんなの優しさに守られて育つ」といったレベルの実践が多かったでしょ。でも 80 年代にはすごく発育の理論が深まりその学習が浸透していった時代だと思うんだけど。

矢島
 特に乳児を中心に発達の節とか,育つ道すじとか,生活リズムづくりとか,研究の方もていねいになされてきた時期でした。新しい保育用語に保育者たちは敏感で,すわっと飛びつく傾向もありましたが,とにかく保育者は熱心に学び,細やかな保育実践を重ねて力をつけていきましたね。

子どもが育ちにくい時代に
いまだからこそその保育者の役割

小出
 私たち現役の「保育園児の親」だった頃から 20 年もたって,今の親たちからは保育運動らしき動きはでてきているのかしら。

矢島
 産休あけの保育にしても保育時間の延長にしても,それに学童保育まで,今は国の方から取り組みの姿勢を見せるでしょ。それは長年の私たちの運動の成果なんだけれど,今の親にはその部分は見えにくいから,待っていても少しずつ保育はよくなると思う親も増えてるといえますね。保育運動が骨抜きにされてしまいそうな危険性もあります。

小出
 「便利」には確かになってきているんですね。内容を抜きにしていえば。

矢島
 そう。民間の商業ベースの「サービス」まで含めると,かなりのところまで「欲しいサービスはお金で買える」時代になってきていると思う。資金づくりや会議で忙しい共同運営の学童保育を利用しないで,塾とおけいこを好きなように組み合わせて,それでも一応「解決」するわけだし。

小出
 何が子どものためか,親が選択する目を持たないとね。

矢島
 働き続けるための条件は,これもやはり運動の成果という側面が強いけれど,育児休業は取れるようになった,土曜日曜と休める職場が増えている,休暇も多少は取りやすく(リフレッシュ休暇が新設されたり時短が課題にされたり)なった,などなど,良くなってきてはいますね。子どもの預け先だって選択肢はいろいろできたし。

小出
 働き続ける人にとっては子育てにゆとりができてきたのかな。制度面の条件からすると子育てがし易くなってきたのかな。そういう面もあるのね。

 ところで今どきの親は子育てがヘタだとしきりに言われているけれど,どうなのですか。親自身がまだ「こども」で,人のことどころじゃない,つまり子どもの要求を時間をかけて聞いてあげたり子どものする「意味もないこと」(実はあるんだけど)に根気よくつきあってあげたりできない,とか本当は話しのできる仲間をすごく求めていて心細くて寂しいんだけれど,自分が仲間をつくっていけないとか,よく聞かされるんだけど・・・。

矢島
 生活リズムがますます夜型になるとか,コンビニのお弁当に頼るとか,気になる事例はあるけれど,個々の親が子育てがヘタとか上手とかいうことにより,大人の,社会の生活そのもののくずれの反映ですしね。

 とにかく,日本中が高度経済成長期の波をどっぷりかぶってしまって,お父さんが仕事にしか頭が向かなかったり,一家にテレビが何台もあったり,家族が一人ひとり別々の部屋でコンピュータやファミコンで過ごしたり。かなり人と人が関わっていくところが薄くなっていったかな。これが子育てにもいろんな問題をもたらしていった。

小出
 親を攻めても何も始まらない。子育ての困難は相当部分,構造的というか,社会のありかたからくるものね。

矢島
 問題はいろいろありながらも,一方ではむしろ最近の若い親の子育てのうまい面,積極面にも注目したいんですよ。そんな事例がまわりにちらほら。

小出
 ヘェー! どういうこと?

矢島
 髪ふりみだしてがんばった私たちの世代がけっこう思春期の子育てあたりで苦労した例が多かったからか,それ見てきたせいか,若い親の中にもっと子どもに目や心を向けよう,ていねいに話しを聞こうという傾向がでてきている。

小出
 それはいい傾向よね。保育もさっき見てきたように,一人ひとりの心とか内面を尊重するところまで深まってきたわけだし。

矢島
 だから職場でも夜を徹して会議をする,なんていうスタイルはもう取れない。時間内に能率よく合理的に,ね。プライベートな時間,自分の家族との時間を大事にしようという意識が強まっているといえばいいかな。

小出
 ウーン,反省されられるなぁ・・・

矢島
 それに「おやじ」も変わってきてるしね。私の世代の男は自然な感じで台所に立つということはなかった。それが今は協力しあって家事育児をする傾向がありますよ。

小出
 こうなれば「孤独な子育て」の半分は解消したようなものよね。でも世間一般ではまだそこまでいっていないよね。ということは,「父親も育児を手伝え」と園が指導してのこと,それとも・・・?

矢島
 むしろ子育てのおもしろさ,楽しさを母親に独占させておくのはズルイ,自分たちも共有したい,そんな父親たちが交流する場を作って他の父親にもその影響をひろげていく,そんな場づくりをしたってことかな。

小出
 「おやじの会」はずいぶん活発みたいよね。私の保育園(利用)時代にはなかった傾向だとは思ってみていたの。卒園児の同窓会の写真をみてもすごい割合でお父さんも参加しているしね。こういう男女共同参加型の家庭づくりが保育園を先頭に動きだしているのは心強いことよね。

 新しい家庭像,新しい親子のありかた,なんて正面きって言わないにしても,保育園が意識的にリードしてそういう新しい芽を育んできたのでしょう?

矢島
 それはいくつもの保育園・幼稚園で意識的に取り組んでいるといっていいでしょうね。地域社会の共同性がくずれた,隣近所の関係がなくなった,なんて言うけれど,同じ園に預けた人どうしがこれからの新たな「隣近所」になるんだと思う。そうやって家族と家族をつなげていく試みをしている園はいつくもある。子どもを互いに泊まりにやって家族ぐるみで交流したり,幼稚園なら放課後互いに遊びに行き来するように声をかけたり。そうやって,卒園したあともキャンプだカラオケだと親子ぐるみのつきあいがつづいていたりするのです。

小出
 ただ同じ園に預けているだけで,保育者からのそういう意識的な働きかけがなければ互いに知り合い交流する関係にまで育たないものね。そこに新しい保育者の役割があるように思います。その「近所づきあい」が何年も続いて,子育ての「難所」である思春期の頃にもなんでも相談しあえるような子育て仲間になるといいなぁ。子育てがしにくい時代,というより子どもが特に思春期から青年期にかけて育ちにくい時代に,何が心強いといって子育て仲間,なんでも相談できる親の仲間ほど頼りになるものはないと思う。20 年前いっしょに保育園通いをした親たちが今も働き続けていろんな大変さを乗り越えてきたのもその頃の仲間に支えられ助けられてきた面がとても大きいでしょう。

矢島
 困難を乗り越えて働き続けてきたから,自分の世界を持ち続けていて,子どもべったりの親にならないで済んだと思うの。子どもたちが大きくなる家庭で親子関係のさまざまな葛藤はあるけれど,ある段階で立ち直っていく姿もたくさんみてきましたから。親への反発からなかなかぬけきれなかった子も,成人した今となっては親の生き方を肯定し,共感さえしてくれるようになっているのは,うれしいことですね。

 子育ては息のながーい仕事。そのことを伝えたり,それぞれの子育て体験を語り合い交流する場を提供する役目が保育園にはあるみたいね。

小出
 子育ては共同でしかできないっていうけれど,そういう事例,経験がたくさん蓄積されていますね。子育ての共同を生み出すのが園,保育者の役割ですね。

矢島
 保母たちを見ていると,乳幼児を持つ保母には他の保母が休暇をとってでも援助を申し出たり,時には別の保母の母親が赤ちゃんを預かったりと,見事な共同をみせてくれる。そういうことが各職場に,そして地域に,ひろがって,みんなでみんなの子どもを見守っていくという時代にしたいですね。新しい時代にマッチした共同子育ての輪がしっかりねづいていってほしいですね。

小出
 私たちの時代と同じく苦労をするのでなく,でもこうして一つひとつ積み上げてきた成果で今の子育ての条件が少しはよくなったのだということにも気づいて,今の有利な条件を活かして楽しくたくましい子育てをしていってほしいですね。