一枚の写真 写真で巡る保育の歩み
未来にむかって 〜創る喜びを〜
段ボール箱で始まった
“子どもを産んでも働き続けたい”そんな女性の声が高まりつつあった 1960 年代。その頃は生後 43 日目からの乳児を受け入れる保育所が皆無でしたから,全国の都市部を中心に,無認可の共同保育所が竹の子の芽のように誕生していった時代でありました。
ゆりかごの家共同保育所もそのさなか,1968 年に札幌では二番目に自宅の一間で産声を上げました。写真の右下側に見える段ボール箱は近所のお茶屋さんから5円で手に入れたものです。今でこそ,どこにでも投げ捨てられていますが,当時は一箱見つけるのもやっと。机やイスや車になったり,一つで何役もこなしてくれる貴重な存在でした。
赤ちゃん三人に夜間保育学生さん一人。二歳の末娘(写真中央)を保育助手?に,私は離乳食づくり,助成金増額にむけての市との交渉に資金づくりにと明け暮れておりました。ダンボール箱のような存在だったのかな---。
5年間に五度の引っ越し
開設から半年もしないうちに子どもが9名に増えて,もう一間では限界。新聞広告を見ては「子どもがたくさんいるんですが・・・」の家さがし。やっと貸してくれた所は日当たりが悪かったり,ネズミが出てきたり,トイレの床が傾いていたりの古い家ばかりでした。子どもたちを少しでもよい環境で育てたいと転々とした5年間でしたが,最後に落ちついた所は空き家のままになっていた宣教師館でした。フローリングの床,ホールに個室,広い庭もあり,まるで保育園に建てられたようでした。
札幌駅から歩いて八分という便利さもあって,連日のように入園希望の電話がかかってきます。子どもの数も0〜1歳児だけで 45〜6 名にふくれあがって,これ以上は無理というギリギリの状態でした。それでも「トイレの前の廊下でもけっこうです。寝かせてください」と,間もなく産休があける方から頼まれると返すことばもありません。とうとう,月齢の高い子から順に転園してもらうことになりました。三人そろって○○保育園に入れるよとの役所からの知らせに一応喜んだものの,その子どもたちには大きな試練が待ち受けていたのです。
子どもの思いをかなえたい
しばらくして転園先の園長さんから
「おたくから来た三人がクツをはいて手をつないで勝手に外へ出てしまったんですよ。それに食事のとき,オカワリオカワリとうるさいです。今日はトイレにある洗面器の水を頭からかぶっていたんですよ。お行儀が悪すぎます」と苦情の電話。それを聞いたとたん,涙があふれてきました。外で水やドロンコで存分にあそんでいた子どもたち,近くの公園や北大の庭に毎日のように散歩にでかけていた子どもたち。今,どんな思いで過ごしているのだろう。そう思うだけで,じっとしておれません。親も保母もどんなに悔しい思いをかみしめたことか。
しかし,この一件があって「よーし,子どもたちの思いがかなえられるように,みんなで自分たちの保育園を建てようよ」の気持ちが芽ばえ,まとまり,高まって,その後の認可運動に全精力を注ぎ込めたのだとおもいます。
土地もない,お金もない,あるのは情熱だけの私たちが市の保育部の方の心を動かし,道内外五千人以上の方々の支援を得て,ついに,1973 年の秋,定員百十名の園舎を完成させることができたのです。疲れも見せず,夜遅くまで資金あつめに奔走してくださった親たちの姿は今も頭から消えません。
未来を創る喜びを
ことし,共同保育所づくりから 25 年,認可になって 20 年を迎えました。いくつかの困難をくぐりぬけて,さまざまな思いがよぎりますが,今,一人のお母さんの詩にふと立ち止まって,未来のことを夢見ています。
これからも,創りだす喜びをまわりの人たちといっしょに味わっていけたらなーと念じながら・・・。(やじまみつこ)
常盤野泰子“しなやかな からだ
しなやかな 手
しなやかな あたま”子どもたちに のぞむなら
私たち おとなこそ
子どもを とりまく おとなこそ
しなやかな心と体を育てよう未来は 子どものものだけど
未来を 創り出すのは わたしたち一人では耐えられないことも
二人になれば生きられる
十人では不可能なことも
百人になれば すばらしいさあ 面をあげて 歩き出そう
未来という名の「重荷」を背負って(1979 年作・ゆりかご後援会初代会長,現・理事,四児の母)
「現代と保育」 33 号より
1994.3月 ひとなる書房