1999年10月26日
札幌市南区真駒内教会告別式にて
矢島 満子

 14年間のがんとの闘いはどんなにつらく、くやしく、長い道程だったことでしょう。なのに、最期はあまりにも短く、あっという間のお別 れでした。

 まみさんとは28年間のつきあいでした。ゆりかご保育園が認可に向けて最後の準備に明け暮れていた1972年、北大の教育学部の若井先生の研究室でまみさんと出会いました。その頃、学童保育所づくりをしておられたまみさんと"保育所づくり"で意気投合、さっそく理事のメンバ−に加わっていただきました。翌年1月には志郎くん(末息子)を出産しておられ、10月の開園と同時に、0才児クラスの親になられました。その6年間の保育者とまみさんの連絡ノ−ト等のおびただしい記録をもとに1984年「保育園児はどう育つか」(ひとなる書房)を出版されました。

 その翌年から、がんとの闘いが始まったのです。再発という大きな山を越えられた1989年頃から初期の卆園児の母たち、まみさんも含めて数人が定期的に集まり始めました。ロゼの会(ワインを飲んでひらめいた)と称して女性が退職後も輝き続けて生きる準備をしようと月一回の読書会をし、Ladies通 信を発行しました。1992年秋には、"仲間と支え合う老後を過ごせる住宅づくり"へのまみさんの強い思いを受け、夢貯金の会(高齢者住宅問題研究会)に切り替わっていきます。まみさんを頼って札幌の有料老人ホ-ムに移ってこられたお母さんのことが大きな問題と感じられ、その思いを強くされたのでしょう。亡くなられる一ケ月前に集まった夢貯金のメンバ-に「私にはもう時間がないけれど、ぜひ、老後に仲間と過ごせる共同住宅づくりを」と語られ、その夢は最後の最後まで持ち続けておられました。

  一方、まみさんの最後の10年はカナダの子育て家庭支援の研究に打ち込まれていました。折りに触れ、カナダの話をされ、資料などを見せていただいていたのですが、私はさっぱり心がそちらに向きません。日本の保育制度が危なくなるこの時期に、「子育て支援どころでない。いや、30年来すでに保育園でやってきたことこそが子育て支援だ」と考えていたのです。厚生省発・少子化対策の「子育て支援」とだぶらせていたのです。そんな私に1997年の夏、まみさんは「これがカナダ行きの最後になるかも知れないから一緒にいってくれないか」と誘われました。運動会の準備の時期だから、保育園を留守にできないと再三断ったのですが、「園長がいないと運動会も開けないような保育園なのか」とFAXが送られてきます。迷った末にカナダ行きを決断し、カナダ子育て家庭支援の研修の旅に出かけました。この強引とも言えるまみさんの誘いの意図が10日間の滞在で少しずつ分かり始めました。そして、1998年のカナダ研修は私からすすんで参加しました。

 この10年のカナダ子育て家庭支援研究の総まとめを1冊の本にしたい!昨年の秋から 執筆のために何度か家から脱出されたり、自宅でテ−プに吹き込まれたり、やっと10日前にその活動を終えられたばかりでした。この本の出版までの運びは励ます仲間たち、忍耐のいるテ−プほどきの作業をやりとげられた教え子さんたちや秘書役の長女れい子さん、ひとなる書房の方々の支えがあって、また、最期まで自宅療養を通 されたことがあって実現したのでしょう。

 病院は個室を与えるからと入院をすすめておられたようですが、「病院には個室が少なくて、本当はご臨終にならないと個室に入れてもらえないのよ。6人部屋でつらい思いをしている人たちがたくさんおられるのに、自分だけ特別 扱いされるもいやだし...。でも、しっかり意識があるうちにお別れの言葉を交わしたいよね。自宅にいたから母ともじっくり時間をかけて、誰に遠慮することなく話し合えたし...。どの病院ももっとホスピスのこと考えて病室をつくってほしい。」と語るまみさんの声には、ある限りの力が込められているように思えました。

 出会いから28年、まみさんはあまりにもはげしく私たちの前をかけぬけていかれました。そのはげしすぎる生き様から私は大きく3つのことを学びました。"ひとりで悩まないで、支えあう子育てを"、"老後は仲間と支えあって"そして、3つ目に"あの世にいくのは独りでだけれど、この世のぎりぎりまで家族から、友や、教え子たちから、いっぱいいっぱい支えてもらうとこんなに美しく逝けるのよ"と、安らかな顔が語っていました。これからのタ−ミナルケアのあり方を示してくれたのです。

 まみさん、たくさんのメッセ−ジを有り難う。これからもあなたと共に歩みます。