ゆりかごの歴史の一部をご紹介します。無認可から始まり,認可されたころまでの記録です。( 20 年以上前に雑誌に掲載された記事より)

足跡足跡

札幌市 幌北ゆりかご保育園を訪ねて
ゆりかごから巣立て,未来を築くたくましい子ら

 幌市の幌北ゆりかご保育園は働く母親たちが多くの人々の協力を得て,みずからの手でつくりだした保育園である。

 働く母親たちのために,0歳から6歳児までの集団保育を展開している。そして,この“ゆりかご”の運動はただ単に働く母親たちのための便宜をはかることにとどまらず,子どもたち自身にとって,心身の全面的な成長のためにも,集団保育が必要なものという考えを基本にしている。

 園長の矢島満子さんをはじめ,理事会,後援会,保母さんたち,父母,そしてほかの多くの関係者たちは,子どもたちのためのよりよい保育を求め続けてきた。それはこの幌北ゆりかご保育園が,二人の子どもを預かる私設共同保育所から出発し,園児 120 人(注・当時),保母さん 28 人(注・当時)の認可保育所となった現在に至るまでの歴史でもある。

足跡

自分たちの保育所をつくろう

 和 49 年 12 月 14 日,札幌地方は今冬にはいって二度目の大雪に見舞われた。まさに北の都にふさわしいみごとな雪化粧であった。札幌市北区北 18 条西7丁目,北海道大学の裏手に,幌北ゆりかご保育園は目にしみるような雪景色の中に,透き通るように建っていた。

 園長の矢島満子さん( 38 歳(注・当時)),闊達な明るい人である。一語一語非常に語尾のはっきりした口調で,幌北ゆりかご保育園の歴史と集団保育にかける夢を語ってくれた。

 矢島さんたちが,働く母親みずからの共同保育所を,と思いたったのは昭和 43 年7月のこと。普通の家の六畳間で,子どもは二人,ベッドは幼稚園からもらった古机とこうり。0歳児をすわらせるイスはお茶屋さんからもらったダンボールの箱だった。最初の年は,こうして資本ゼロの状態から始まった。小さい子どものいる家の一室を借り,それを転々と移り歩いた。この時代を間借り時代と呼んでいる。

 保育料は 6000 円(注・当時),保母さんの給料も1万 7000 円(注・当時)しか出せなかった。それでも運営は苦しく,矢島さんたちは,はちみつやらストッキングやらを売り歩いて,かつかつの状態だったという。

 翌年(昭和 44 年)には,子どもは9人になった。一室では,もうどうにもならない。広い場所が必要になった。ようやく見つけたのは,児童公園が近くにある3部屋つきのアパート。ところが,そこは道路から階段で地下におりていかなければならない。薄暗い所だった。これを称して地下室時代というのだそうだ。

 この年にようやく札幌市から助成金がもらえることになった。同じ働く母親たち数人との,ねばり強い陳情の成果である。補助金は年間 40 万円(注・当時)だった。保母さんの給料はなんとか2万円(注・当時)台にすることができたが,まだまだ不足だった。保母さんにも十分な労働条件を確保し,保母の負担もできるだけ軽くしたいと考えると,自分たちの力だけではどうしても限りがあると痛感した。このころから本気になって,行政当局に無認可保育所の現状を訴え,なんとしても認可をとって,もっと補助金を受けようと考えたという。

 「子どもを育てるということは個人的なことではありません。子どもは今よりもっとすばらしい社会を築く力を秘めている----そう考えたら,国の子どもだと思うのです。保育所が認可であろうと無認可であろうと,そこにいる子どもたちが差別されていいはずはありません。認可保育所が必要なだけ十分に整備されていたら,無理してまで無認可の保育所なんかつくらなくたっていいんですから。」

 矢島さんたちは市内6カ所の無認可保育所の保母さんたちに呼びかけて,50 〜 70 人ぐらいで市に押しかけ,現在の窮状を訴えた。矢島さんたちのすることに,いろいろ批判的なことを言う人もいたという。
 「目的は何だと言うんですね。政治的な活動と勘ぐったのでしょうが,そんなおおげさなものじゃないんです。自分たちも働きながら,人間として成長したい。そして,子どもたちもしっかり守りたい。そういう働く母親としての根を持った主張でした。」

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子どもに必要な伝え合い,学び合う集団の社会

 「たちも,はじめは保育についてはズブのしろうとでした。確かに働く母親のためには,保育所は絶対に必要なわけですが,子どもたちにとってよいことなのかということですね。

 たとえば,素朴な疑問として,まだわけのわからない乳幼児なんて集団保育の中では個性が失われてしまうのではないか。右向け右式の,やることなすことみんな同じなんて,無味乾燥の人間になってしまうのではないという人もいました。

 私も最初は確信はありませんでした。でも,保育の実際の経験を通して考えてきました。それにそのころ,いい人たちに会えたんです。すばらしい保育の実践経験を持っている人の話も聞くことができました。

 オギャーと生まれたそのときから,人はそれぞれのよいものを持っている。また,よくなろうとする心があります。集団の中で,それが失われてしまうのではなくて,それぞれの持つよいものを伝え合い,学び合っていくのです。

 悪いところ,遅れているところも集団の中で直し,集団のレベルに近づこうとする。それが集団のよさではないでしょうか。おとなの社会だって,すぐれた集団社会はそういうものではないでしょうか。

 集団と個というもの,それは乳幼児でも基本的には変わらないということを私たちは知ったのです。」

 この年の 11 月,冬に向かうのに,南側に窓のない,日のあたらない地下室保育では,子どもたちの健康に悪いと,またまた引っ越し。こんどは南向きの日当たりのいい家だった。しかし,純和風のこの家,子どもたちは見る間に,障子もふすまもボロボロにしてしまった。

 称してこれが,お化け屋敷時代----みんなで壁にペンキを塗ったり,ふすまに紙をはったりイメージアップをはかったが,ダメ。お化け屋敷の観はぬぐい切れず,これでは子どもたちの情操教育にいいはずはないと,ついに五度目の引っ越しに踏み切った。クリスチャン・センターの好意で,その隣に移ることになった。

 「やっと,保育所らしくなって,保育らしい保育ができるようになりました。保母さんたちの努力も身を結んで,少しずついい実践記録が生まれました。

 この年ですね,補助金も今までからくらべると,大幅に増額してもらえました。年間 150 万円(注・当時)です。それに翌年の分はさらにふえて,年間 200 万円(注・当時)もとれたのです。」

 しかし,矢島さんたちはこれで満足したわけではなかった。働く母親と子どもたちのため,矢島さんたちの保育は果てしなく,まさに北海道の未開の原野を切り拓くように広がっていったのである。

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“ゆりかご”をもっと大きくしよう!

 和 48 年,ゆりかご保育園には産休明けの申し込みがどんどんふえ始めてきた。これまで産休明けから預かっていた子どもたちは,2歳になると無理やり卒園。しかし,外には約 40 人もの子どもたちが順番を待っている認可保育所の狭き門があるばかり。

 やがて“ゆりかご”を卒園しなければならないこの父母の間から,「せめて3歳まで,いや,できれば6歳までつづけてもらえないか。そうだ,ゆりかごを認可保育所にして,もっと大きくしよう」という声が上がった。

 この年の夏,父母たちが中心になって,“この地区に認可保育所を!”という署名を集めた。結果は,10 日間で署名が 600 名,カンパは1万 7000 円集まった。この運動の輪は,着実に広がっていった。そして,その冬,この請願は市の厚生委員会で採択されることになり,ゆりかご保育園の後援会準備会を発足させた。

 入園の申し込みは殺到したけれど,肝心の受け入れ態勢がなかった。分室を2カ所も別の所に用意しなければならなかった。いよいよ自分たちの園を建設する以外にない。市との土地交渉が始まった。市は一坪3万円以上は出せないと言う。ところが,この地区の土地はざっと一坪 20 万円以上もすると聞かされた。待っていたのでは,いつまでたってもダメだ。皆で土地探しに奔走した。市側は高い民有地を買う気はまるでない。

 「保育所を建てる財産はあるのか。北の地区には,ほかに建てたい人がいるので,ゆりかごはもうしばらくしんばうして,無認可のままでいてくれないか。認可保育所を建てたら,今後共同保育所はいっさいつくらないという約束はできるか」など市は,いやみやらクギをさすやら・・・。

 皆の間に,多少あせりの色が出てきた。しかし,ここであきらめてはなんにもならない。

 そんなとき,財務局へ行って調べたら,国有地の空き地が見つかった。150 坪の小さな土地だが・・・。すでに国税局の所有地になっていたというその土地を,市は財務局,国税局に足を運んで,交渉してくれた。

 矢島さんたちの熱意が市を動かしたのだ。昭和 45 年8月 25 日早朝,「やっと,土地が手に入った」という市からの連絡には,飛び上がって喜んだ。これで土地は市から無償で借り受けられることになった。

 しかし,次は建設資金である。ざっと見込んで 3000 万円以上もかかるというのに,国と市からの補助はあわせて 700 万円程度。これでは, 1500 万円以上の借金と,自己資金とカンパで 800 万円は必要ということになる。カンパは,やっと 100 万円にあと一息というところなのに・・・。

 しかし,ここでがんばってきた,ゆりかごのひとたちは,もう,この気の遠くなるような数字に意気阻喪したりすることはなかった。皆で力をあわせれば道は必ず開ける。苦節をともにしてきた者同士だけが知る深い信頼に結ばれた,信念だった。

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とうとうできた私たちの園

 和 47 年9月 18 日,はじめて理事のメンバーが集まり,理事会発足にあたっての書類作りのための,定款を検討。設立代表者(理事長)と園長を互選した。理事長には,北大農学部名誉教授・川村琢氏,園長には矢島満子さんが選ばれた。

 設計には北大建築科の全面的な協力を得,服部綸子さんらが中心になって,建築設計計画委員会をつくって進めてくれた。理事,設計者,職員,父母有志でよその保育園の見学にも出かけた。

 「皆の永い間の夢が実現するんですからね。一生懸命でした。楽しかったですよ」

 こうして,昭和 48 年9月 21 日,児童福祉法認可。同9月 22 日には,社会福祉法人認可を受けて,認可保育所“幌北ゆりかご保育園”は誕生した。

 そして 10 月の開園には,入園した子どもたちは 100 名。両親が共働き,あるいは母親が病気であるというのが条件だった。

 矢島さんは,「子どもを育てる自身がないから,保育園に預けるでは困ると思うんです。自分でもりっぱに育てられるお母さんが,社会に出て働きたいという意志を持っている----そんなお母さんたちのためにこそ,ゆりかごの集団保育があるんだということを教えてあげたい。

 子どもには家庭保育も,集団保育もたいせつです。どちらも一生懸命,自身を持ってやっていって,その中で子どもの中にひそむすばらしい力を,どうやって引き出すか率直に話し合い,学び合っていきたいと思うんです。

 母親だけじゃなく,父親とも話したい。働く母親への理解と同時に,子どもたちにとって,集団保育がたいせつなんだっていうことを理解してもらいたい。そして父親たちの意見も,私たちの保育に反映させていきたいとおもうのです」と,言葉をはずませる。

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保母は子もりではなく教育者

 りかご保育園の理事の一人である小出まみさん( 34 歳(注・当時))さんは東大の社会学部を卒業し,現在は室蘭短期大学(注・当時)で乳児保育理論の専任講師を務めている(注・その後の経歴等はこちらの本をご覧下さい)。3児の母親で,矢島さんとは保育所づくりの中で知り合い,なんでも歯に衣を着せず,ズバズバ語り合える仲だ。辛辣な会話を楽しんでいるふうでもある。

 現場の実践家と理論研究家というお互いの立場に敬意を払い,協力し合っている。実践が単に実験に終わらないように,(小出さん流に辛辣に言えば,ひとりよがりにならないように)分析し,検証しながら理論化し,次のより確かな実践の方向を見いだす。また,現場の実践家は理論家になってはならず,日々の子どもたちとのふれ合いの中から,貴重な真実をつかみ出し,それを研究家に伝えうる力を持たなければいけないというところだ。ここにも,両者の伝え合い,学び合いによって保育内容を高める関係があった。

 小出さんは,乳幼児の保育のむずかしさと実際を次のように語ってくれた。

 「乳児の集団保育なんていうと,小さい子どもがいっぱいいて,母親をさがして,ワァーワァー泣いている----そんな貧しい,みじめったらしいイメージがあるんじゃないでしょうか。なかなか理屈でわかってもらおうとしても,むずかしいんですよね。どうしても,託児所のイメージで。実際に,なかにはいって見ていると,ああいいものなんだってわかると思うんですが・・・。

 乳児の保育っていえば,一般的には赤ちゃんのミルクやおむつの世話をする程度って思ってしまうのではないでしょうか。保母さんでも,はじめはそう思ってはいってくる人もいます。でも,しばらくすると目が輝いてくるんです。生後 50 日にも満たない赤ちゃんにも人格があるんだってわかってくるんですね。どんなに月齢が低くても,正しい働きかけ(保育)によって,一人一人の子どもたちの持っている能力を可能な限り伸ばしていける。自分たちは,単なる子もりじゃなくて,教育者なんだっていう身の引きしまるような自覚ですね。そして,おとな対子どもという関係だけからは補いきれないものを,補っていくおチビさんたちの集団の力というものに,気がつくんです」

 ゆりかご保育園では,毎月綿密なカリキュラムを発表する。月齢,年齢に合わせて,食事,排泄,言語,遊びから衣類の脱着まで,実践とその成果。

 そのほかに,毎日,一人一人の子どもの園での様子をこまかく記録した家庭と園との連絡ノート。保母さんもたいへんだが,親もたいへんだ。子どもの家での様子をことこまかに書き込まなければならない。しかし,この連絡ノートが基礎になって,一人一人の発育と個性に応じた保育が可能になるのだ。

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ゆりかごをささえる力

 りかご保育園の後援会が正式に発足したのは,昭和 48 年 11 月のこと。翌年の 10 月を期して開園するため,建設資金活動と学習活動に本格的にとり組むことになった。主たる目的は,後援会規則によると,“子どもが集団の中で生き生きと育ち,保母も父母も運営に参加できるような理想の保育園を目指す。ゆりかご保育園がよりよく発展するように物心両面において支援する”とある。

 会長の常盤野泰子さん(注・当時)は,こんなふうに語ってくれた。

 「お金集めは実際しんどいです。でも,お金のある人がバーンと出してそれで運営するのではなく,皆が協力して集めたものでささえていくということが大事だと考えているんです。

 しかし,こういうやり方だけでは,力の限界はあると思うんです。これはゆりかごだけの問題じゃありませんから。保育所にはいれない待機児童と呼ばれている子どもたちは,まだおおぜいいます。それに産休明けの保育をやってくれるのは,実際には無認可保育所なんですからね。

 市は危険を強調するばかりで,何もやってはくれません。行政的に解決していかなければダメな問題だと思います。政治がもっと責任を感じてほしい,私たちの運動は国や自治体の保育行政そのものを変えていかなければならないというところにきていると思うんです。働く母親と,子どものよりよい保育を受ける権利を確立していかなければならない----そのためにも,このゆりかごの運営をささえていくことが,一つのモデルになると信じて,がんばっていきたいですね。」

 この後援会の年間事業計画は,最低 100 万円を目標に着実に進められている。後援会の役員 13 人の中には,現在産休中,あるいは産休が明けたばかりの母親もいる。しかも,このゆりかご保育園はいっぱいで,自分の子どもはいれられないのだそうだ。それでも,だからこそこの運動は必要なんだという意志に貫かれている。協力会員を含めると会員は約 300 名。皆,仕事のかたわら,昼休みを利用して問屋やメーカーに出かけて,毎月1回の定例バザーのための,物品を仕入れてくる。

 メーカーの中には,後援会の人々の熱意に打たれ,主旨に賛同して,衣料品などを寄付してくれるところも出てきたという。

 ゆりかご保育園の建設資金は,石油ショック以来の建築資材の暴騰に出会って,当初の予算を大きく上回って,総額で 4750 万円にもなってしまった。

 このような困難な条件をかかえながらも,それに屈せずにやってこられた力は,子どものしあわせを願うという,親たちとの地域の人々の共通な願いを通してつくられた大きな背景である。有形無形の協力をしてくれた人は,実に 5000 名にも及ぶという。まさに,その力ではなかったろうか。

 「保育は芸術です」と熱っぽく語る矢島さんには子どもたちといっしょに未来をつくる----そんな壮大なロマンがあるように思われた。

 ゆりかご保育園から巣立っていく子どもたちは,きっと,大きくたくましく育ったとき,その力が“ゆりかご”ではぐくまれたものだということを知るに違いない。