故小出まみさん(当園理事長代理)執筆
筆者が長年研究を続けてきた
カナダの子育て家庭支援(ファミリー・リソース・センター)の
諸活動を書いた
「地域から生まれる支えあいの子育て」の
各章のまえがきを紹介します。
五章は一節の部分も紹介します。
この本は1999年11月30日に出版されました。
お問い合わせは「ゆりかご関連本」をご覧ください。
筆者は脱稿直後の1999年10月25日永眠されました。
なお、ここに掲載したものは校正途中の原稿を用いました。
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は じ め に
子育てを「支援」しなければならないなどと、十年前の日本社会でどれほどの人が思ったことだろう。九十年代、子育てをめぐる状況や人々の意識は劇的に変化し始めた。
出生率の急激な低下の事態に直面してわが国でも近年政策的に「子育て支援」が叫ばれるようになった。
けれども国が提示するその中身は狭い範囲に限定されている。そこで意図されていることは大きく二つある。一つの「両立支援」では、これまでの必要悪として最低限の保育政策しか実施しない方針を見直し、多少とも「利用しやすい」保育園にしようということである。もう一つの「地域の子育て支援」では保育園を活用した育児相談と地域の親子あそびの指導が中心であり、いずれも管轄でいえば厚生省中心である。
労働省の施策の「ファミリー・サポート・センター」は名称が大風呂敷である割には、朝夕の保育時間の不足を埋めて預かってくれる個人を組織化しただけである。文部省は幼稚園を活用した地域の子育て支援や育児サークル育成を提唱し始めたばかりである。より根本的な住宅問題や教育問題に至っては全く検討されていないといってよいだろう。
今や厚生省が日本社会を「結婚、出産に夢の持てない社会」と認めている(注:平成十年度厚生白書)。
わが国に真の子育て家庭支援策を樹立していく仕事は、二十一世紀に向かって緊急な課題である。しかし子育てがそもそも支援しなければならないものなのかどうか、腑に落ちない思いが日本の社会には今だに一般的である。「昔の母親は泣きごとも言わず弱音も吐かず子育てをしたのに今の母親は..」「たかだか一人や二人の子どもが育てられないとは、甘えるんじゃない」..。
こうした社会通念が根をはっている間は真の子育て支援策は育たない。
支援の必要性が理解されるための一つの方法が外国の子育て事情の研究である。そこで、子育て家庭に優しい社会としてカナダを対比として取り上げることで日本の子育て支援をめぐる問題点を明らかにしたい。
カナダでは「子育て支援」よりもむしろ「家庭支援」と言われる。それは子どもの発達のための直接的な援助はもとより、子育て期の家庭が直面するより広い範囲の問題に対応しようという意図を含む。生活基盤(雇用、住宅など)に及ぶ助言や援助を提供しつつ、養育者自身にほっと、ゆったりとした時間を保障し、元気を回復し養育への自信を持たせ、かつ具体的な知識・情報やスキルを得させる、幅広い取り組みである。
私のカナダ研究は、直接的には、同じ時代の先進国どうしで外国と日本の子育てがなぜ様相を異にするのか、という関心から始まった。さまざまな国際比較調査によって、子育てが楽しいか、子育てをする意味は、などの問いに対するわが国の親の回答に「楽しい」という者の率が、諸外国とは対照的に低いことがわかっていた。
日本の子育ての困難の原因はどこにあるのか、なぜ欧米の多くの国で子育てがわが国とは比較にならないほど「楽しい」と感じられるのか、そうした事情が探りたくて始めたカナダの子育て研究であった。
そこで見えてきたことは、ひとことでまとめれば、母親一人に任せられた孤立無援の子育てか、父親を含め多くの人の支え合いでなされる子育てか、の違いであった。
この本では、今日のわが国の保育・子育てをめぐる議論のキーワードである「子育て支援」を中心にして、これまでにカナダでの研究から見えてきたことを報告してみたい。日本の子育て支援策が単なる出生率上昇のための方策にとどまるのではなく、子どもを産み育てることが親や社会の喜びとなるように、人間が人間らしく生きられる社会づくりにつながっていくように願いながら。
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一章 子育てが楽しめるしくみ
種々の国際比較調査によって、日本の親が子育てを楽しんでいる割合がきわだって低いことがあきらかになっている。なぜ日本では楽しいはずの子育てが苦役になってしまったのだろうか。わが国と対照的に子育ては楽しいと応える欧米諸国では何が日本と違うのだろう。
確かにカナダも子育てが楽しい社会であることが実感できる。子どもが大きくなったあと、もっと育てたくて養子を希望する。自らも障害児を育てあげた人が、手があいたからと、他人の障害児を預かるボランティアをする。スポーツ観戦に行く時についでだからと子どもの友達を連れていく。そしてこういうことをする理由を問うと男女ともに「子どもが好きだから」「子どもを育てるのが楽しかったから」と言う。このゆとりはどこからくるのか。
二・三章でみるような子育て支援の拠点が全国にひろがりを見せているから子育てが楽だというだけではない。それ以前に日々の子育ての営みの中に「孤独な子育て」に陥らないための知恵と工夫があふれているように見られる。日常的にさまざまな形で子育てを大勢の人々と支え合っているのである。
人々に支えられての子育ては楽しい。楽しく子育てのできた者は後に続く子育て家庭を支える側にまわる。こうして日本とは全く異なる支え合いの子育ての風土がつくられている。
1節 子育てを苦役にする神話
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二章 カナダの子育て支援を担う人々
家庭支援とは何なのか、何をどうすることで子育て家庭が支援されるのか。この答えを急ぐ前にまずは事例から見ていこう。
カナダ最大の都市トロントには二十余年も子育て家庭支援の実践に取り組んできた人や注目すべき施策を生み出し育ててきた人など魅力あふれる人材が多く存在する。ここでは三人のそうした人物を取り上げ、その仕事や信念をみていきたい。ただしいわば三人三様、共通点もあるとはいえ個性的である。この多様性こそがカナダの子育て家庭支援の現実、特徴である。このうちのどれが正しい考え・方法かと「正解」を求めることは正しくない。けれども何かをそれぞれの先達から学べるであろう。
1節 規制のない出会いの場をつくる
−リヴァ・ノヴィック
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三章 子育て家庭支援の拠点ファミリー・リソース・センター
カナダでの子育て家庭を支援する活動は、おもにどこで誰により支えられているか、そしてどのような活動が取り組まれているのか、その特徴はなにか。この章ではこれらのことをみていきたい。
子育て家庭支援のためには、様々な拠点がある。二章でみた事例のうち一節と三節の実践は、ファミリー・リソース・センターと呼ばれる場が舞台であり、そのほとんどは民間の設立だが行政的には州の地域社会サービス省の助成金が中心で運営されている。それに対して二節の実践はトロント市教育委員会独自の活動で生涯教育の事業と位置付けられている。他の自治体でも学校を活用して地域の親子のためのたまり場や、ヘッドスタートに類する活動をしている例がある。
これらの他にも軍部が全国各地の基地に親と子のためのセンターを開放して軍属の家族の孤立を防いでいるなど、設置者から形態まで様々で輻輳している。
これら親と子のためのプログラムを総称してファミリー・リソース事業という。オンタリオ州の場合それらの中心的な存在がファミリー・リソース・センターといえよう。それらの様子を報告してみよう。
我が国には保育所が全国津々浦々まで一定の発達をみせているという事情があり、保育所の未発達なカナダを真似してファミリー・リソース・センターを作ればいいとは必ずしも思わないが、保育所とは別の子育て支援を主たる目的にした施設が増加する必要性と可能性がないとも限らない。いやむしろ保育所にその仕事の大変を依存しようというのでは、その荷の重さを保育所が担いきれない日が来るのも近いだろう。そのような意味で子育て支援のための専用施設ファミリー・リソース・センターの実際とそれを支えてきた考え方を、歴史的な歩みを含め見ておきたい。
一節 子育て家庭支援活動の広範さ
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四章 家庭支援職の専門性をめぐって
カナダの子育て家庭支援に学ぶまで私自身、保育者は親より知識の点で優位性を持つが、親は素人にすぎず、従って保育者が指導性を発揮し親に対して教え、親を変えるべきだと思っていた。
20、30年来のそういう傾向の中で保育者主導の生活点検活動なども広く行なわれたし、保育者から親への批判も少なからずみられた。そのあげく親と保育者が敵対的、対立的になる場面も多くみられた。(鈴木左喜『 』第一章参照)
しかし、結果的に親と保育者のこのような関係は間違っていたというべきである。保育職は簡単には子育て支援職を兼任できるものではない。カナダの家庭支援の現場を数多くみることで、この事を確信することが出来た。
家庭支援職には保育職とは違う独自の専門性があるのではないか。そうだとすればその内容は何か。またのそ仕事の手法の独自性はどこにあるのか。カナダでは第二章でみたような優れた先達たちはじめ、多くの家庭支援スタッフの魅力あふれる仕事ぶりをまのあたりにし、このことを深く考えずにはいられなかった。
カナダではファミリー・リソース事業全国協議会がトロントのライアソン・ポリテクニク大学と共同で家庭教育・家庭支援の専門職の養成に取りかかっている。そこで構想されている家庭支援職の養成課程の教育内容とはどのようなものか、この検討を通しても家庭支援の専門職の専門性について考察を深めてみたい。
一節 家庭支援職に求められる資質
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五章 これからの子育て家庭支援の方向を求めて
カナダの子育て家庭支援の諸活動を、現状から多少の歴史的な考察にまで及びみてくるなかで、子育て家庭支援が小さな領域に止まる底の浅い活動ではないことがわかってきた。今後の子育て家庭支援はどのように発展していくのであろうか、日本では、そしてカナダでは・・・・。
わが国においても、子育て期の不安を軽減するための活動として各地に公立のもの、民間の活動、大規模なものから個人的なボランタリー・レベルのものまで様々な活動が取り組まれている。それらの中では厚生省の主導による、保育園を利用しての地域の在宅の親と子のための「遊び広場」などと呼ばれる活動も多くみられるのであるが、人数や回数に制約がある。部分的にはもっと恒常的には園庭開放や相談活動に取り組んでいる例もある。
より大規模には例えば大阪の吹田市(注:本の名前入ります)のように、保育課とは別の子育て支援課という部署を市役所内に設置し全ての公立保育園が子育て支援センターを兼ねるなどという行政ぐるみでの保育園を利用した子育て支援策もある。また幼稚園も在宅未就園の子どもたちや、長時間保育を必要とする子どもたちのための預かり事業を広げることなどが国から要請されている。
その他の形としては、「武蔵野市立0123吉祥寺」のように法的には幼稚園でも保育所でもない、0123才児とその養育者たちのための専門の施設を市が作り、公設、民営しているケースもある。日本版ファミリー・リソース・センターである。(注:本の名前入ります)
様々な取り組みをみてくる中で、それぞれの抱えている問題や一長一短を上げることも出来るが、この章ではあえてそれらの一つ一つには立ち入らず、今後の施策づくりに大きな示唆を与えてくれるであろうような実践の形をわが国とカナダの双方から例に上げ先進性について分析してみたい。
一節 むくどりホームの場合
むくどりホームは、一言でいえば個人がボランティアで自宅を開放し、市の公園と連動して子育て支援のセンターを生み出している場である。
札幌市郊外の藤野という地区に、柴川明子さんは住んでいる。彼女は、自分の子育てを終えたあと、大学院で障害児の発達や教育、援助について勉強した経歴の持ち主である。
柴川宅の向かいの土地に札幌市が市の公園をつくることになった。街区公園(もとの児童公園)といって、テニスコート二面分の大きさしかなく近隣の子どもたちのための公園としてのスペースしかない。
だが自宅の前に市の公園が出来るとわかった時、柴川さんは障害児も共に遊べる公園であってほしいと願った。それは、例えば目や体が不自由な子どもたちにとって、公園はこれまでほとんど自由に利用することは出来なかったことを知っていたからである。好奇の目で見られたり、いじめの的になったりして遊べない。あるいは、使えるような施設や遊具になっていない。
そういったこれまでの思いを市の公園設計担当者も興味深く受け止め、ここに初の公園設計段階への市民の参加が実現していくことになった。市民として、あるいは公園の置かれる地域の住民として、あるいは障害児を持つ親としてさまざまな関心を持つ者たちが設計段階で討論し合い、意見を練り上げ市に提案していこうと考えた。
市もこの住民参加、ワークショップ方式による公園の設計という新しい試みに積極的であり、足かけ二年に及び5度のワークショップや、遊具、設備、花の種類、ホームの運営形態などにつき協議を重ねた。いったい何があれば体が不自由でも遊べるのか、何が今までの公園ではバリアーになっていたのか、車いすや目の見えない状態を互いに実習してみるなどしながら、意見を交換し合い、目が不自由でも耳が不自由でも楽しめる遊具や設備の工夫や転んだ時にショックの柔らかい材質の園路などが工夫された。
さていわばハード面での公園は市のものであり市が設置したわけであるが、そこが一つの家庭支援センターとして使われるためには道路を一本はさんだ柴川さんの私宅を開放する必要があった。街区公園は小規模でトイレが設置されないので柴川家のガレージが外から入れる車椅子でも入れるトイレになった。
むくどりホームは、そのようにして個人宅を火曜、土曜の週に二回、十時から午後四時まで完全に開放してあらゆる人に出入り自由に利用してもらっているものである。一緒にお茶を飲んだり、お昼を食べたりおしゃべりをしたり「どれどれ貸して」と赤ちゃんをひざからひざに手渡ししたりして、お互いに気楽に一息入れたり出来る場として個人の家を開放しているわけである。
本来は地域の子どもたちを対象とする公園の規模でしかないが、ここには障害を持っていても遊べる遊具があり、どんな人たちをも受け入れてくれる人たちがいるということが、口づてに伝わるなかで利用者は全市に及んでいる。利用者はもちろん近隣の子どもたちが多いが、車いすの脳性マヒの子どもを連れて、遠くからやってくる人もいるし、聴覚障害、弱視、自閉児など障害もさまざまな子どもたちの利用がみられる。
むくどりホームは、柴川さん個人によって運営されるのではなく、むくどりホームふれ合いの会というボランティア組織が運営を引き受けている。ここにはまず、柴川さんを中心に「視覚障害児者への理解と支援」について市の女性学級で学習したメンバーたちがボランティアとして柴川さんを取りまいて世話人として底辺で支援している。その他に障害療育施設の職員など様々な分野の専門知識を持った人々も関心を持ちボランティアとして関わっている。また、地元町内会の人たちも、公園の設計段階から参加して、自分たちの公園という自覚の強い公園であるから、市から公園の管理を委託されているが、その経費はそっくりむくどりホームの運営にまわしながらもゴミ拾いや、草刈り、雪かきなど実務的な手伝いを欠かさない。
そのようにして幾重もの人垣が、むくどり公園とむくどりホームを中心に大きな輪になり、子どもたちと親たちを見守る、かつての地域の共同社会のようなものをつくり出しているのである。いいかえれば、むくどりホームの存在が核のようにしてあることによって、地域の中にそれまで潜在していた子育てを支援する能力がいろいろな形で発掘され一つの渦としてむくどりに集結してきている。
例えば近くの手づくりパンの店では、自分たちは直接ボランティア活動に携わる時間のゆとりもないが、この形でなら出来るといって、むくどりホームが開設される日の前夜は、売れ残ったパンを一つ一つ包装して翌日のむくどりホームでの昼食にと全て提供してくれている。
あるいはまた、盲導犬として訓練された大型犬を飼っている人が、役に立てないだろうかと申し出てくれる。子どもたちは思いがけずおとなしく従順な犬とのふれあいの経験が持て人気の的であることは言うまでもない。
また例えば、ある夏の夜公園に中学生たちがたむろした。当然タバコを吸う、花火を打ち上げるなど、何か好ましくないことが起きそうな零囲気であった。けれども柴川さんは、そこに否定的に関わるのではなくて、火曜日と土曜日の開設時間内に来て手伝いをしてくれないだろうか、中学生のお兄ちゃんやお姉ちゃんを待っている子どもたちがたくさんいるというような伝え方をする。子どもたちは何ら問題を起こすことなくその夜は散って行き、後日その子たちのうち何人かが公園に遊びに来て年下の子どもたちと仲良く遊んでくれたという。
むくどりホームはまだ開設してから三年の月日を経たばかりであるが、地域住民の中にはご両親の遺志として大型の遊具や備品をむくどりホームに寄贈された方もあるという。住民たちの共有財産としてむくどりホームを育てていこうとする姿勢がみられる。
むくどりホームがどのように利用され、どのような機能を果たしているかここに関わっている人たちがそれぞれどのように変わったかを事例とともにみたい。
1 かかわる人たちはどう変わったか
まずは子どもたちの変化をみよう。公園に人が集まるだけでは障害児に対する差別はなくなりはしない。だが専門知識を持ったボランティアたちがスタッフとしてそこにいることによって障害のある者、ない者などの間に橋をかける役割をしてそこは出会いの場になっている。
障害児に触れたことのなかった子どもたちは初めは残酷なことも言う。「あの子はものを言っても返事をしない。」「あの子の目は変だけど見えているのか」、などと言ったりする。その時に「あの子じゃなくてこの子には、いずみちゃんって名前があるの、名前で呼んであげてね。歌が好きなんだよ」などというふうに障害を持つ子どもへの関わり方を取り次いであげる。この役割を当初はスタッフが、また今では、障害児の親自身がするようになってきている。
このことにより子どもたちは急速にそれまで出合ったことのない異質な存在である障害児たちとの接近の仕方を学んでいく。ある子どもは攻撃性のかたまりといってもいいくらい動作に落ち着きがなく、そばの子どもにつっかかったり押し倒したり手をあげることが多かった。その子がある時、情緒障害の子どもの寝そべっている傍に一緒に寝そべって、話をするでもなく何かするでもないが、視線を交わし合うなかで周囲が驚くような二人の世界をつくり上げ仲良しになっていく。あるいは、この子は楽器が好き、傍で歌ってもらうのが好きなどということを教えられると、名前を呼びかけつつ楽器で近づき、かすかながらの反応を楽しんでいる。別の子は自宅でも小さな妹を相手に体の不自由な子どもの世話をするごっこ遊びをしたり、その次にむくどりホームで肢体不自由の子に出合った時には前にもまして優しく接してあげることが出来たりしている。あるいは、翔太という近所の子どもが、翔太という障害児に出会い、「おまえの名前ショータ?オレもショータ。じゃあ同じだ」と言うやいなや、以前からの友達ででもあったかのように元気な翔太くんが車イスの翔太くんの車を押して公園の中で遊び始めたりする姿もみられる。
障害児側にも変化がみられる。ここではふだん養護学校などで触れ合えない豊かな健常児との触れ合いができ、社会的体験の幅を広げている。
週に二日のホームの開放日には何時に参加し何時に帰ろうが全く規制もなく自由なのであるが、パンの提供があることと、またある母親が時々スープを大鍋一杯つくって提供してくれることもあり、毎回昼食時には全員で昼食をともにしながら自己紹介をし合っている。この中で初めは自分の名前を言うことも何も出来なかった子どもたちが母親の言葉に合わせて、わずかに動作で「よろしく」を言ったりまた、自分の子どもの障害のことをひけめに思い隠しがちであった母親が堂々と、これこれの障害のある何年生のだれそれの母親ですと、名乗れるようになったりして変わってきている。
障害児でなくても徒歩では来られない距離から通ってくる利用者たちもいる。そんな中に、少し離れた住まいからむくどりホームまで週に一度は、マイカーで幼い二人の子どもを連れてきていた母親がいた。ある日車が故障してしまったということで、一時間以上もの道のりを、暖かく包んだ子どもたちをソリに乗せて雪の中を引っぱって連れて来たことがあった。この母親にとっては、毎日毎日、幼い二人の子どもと狭い家の中に閉じこもりきりの生活は息が詰まりそうだったという。ここに来始めると、そんな自分を批判し、とがめる人もいないし、逆に誰の子どもであれ、かまわず相手をして遊んでくれる大人たちの存在があった。その中でこの母親は一息つき自分の子育てをゆとりを持って見直すようになり、今では後に続く新しい参加者たちへの援助の言葉かけをする側にまわっている。
また、もう一つ大きく変わってきているのは町内会の人々かもしれない。町内会には時間とエネルギーに余裕のある人々が多く集まっているように見えながら,実際には町内会が地域の子育てに深く関わっているという実践例を聞くことがあまりない。けれどもむくどりホームと公園の存在が渦を呼び、この地域の町内会の人たちは公園のゴミ拾い、芝刈り、草花の世話、冬になると雪かき、雪山づくり、暑いときには日陰をつくるためにテント張りなどの手伝いを日常的に担ってくれている。公園で遊んでいる子どもたちの様子をひなたぼっこをしながら嬉しそうに眺めているだけの人もあるし、また、ある時は急に大勢の参加者があり通常の提供されるパンだけでは足りなくなるのではないかと心配して、いざとなれば自分がパン屋さんに走り、追加分を買ってきて提供しようと気をもんでいる人がいたりもする。
そうしたささやかな一つ一つの変化が全体として地域社会全体で地域社会の子どもを見守っているという、まさに昔の村を作り上げているのだと言えるかもしれない。
地域社会が孤立し疎外感に満ちたものであるなら、そこからは問題(先にあげた例では中学生の非行や反社会的な行動の危険性)が起きやすいが、地域社会の中にインフォーマルな支え合い、つまり互いが顔見知りであり声をかけ合っている人々である地域では、問題の発生が未然に予防されることになっているのではないか。柴川実践は地域社会の力を町内会を中心に大きく掘り起こしたからこそ、地域の子育てが皆の手で守られるという大きい教訓を示唆していると思う。
2 教訓として何が学べるか
以上にみてきたような柴川実践は国内にモデルがあるわけでもなくなんら行政的な発想や規定にのっとったものでもないが、非常に興味深い発展をしてきており、この三年の歩みを振り返るだけでも、今後の子育て家庭を支援するありかたについてカナダの経験から学んだ多くの原則を再度認識するうえでも大きな教訓をたくさん含んでいるように思われる。
まずこの特徴は公園という安全な遊び場は市民の声を聞きつつ市がつくり、それに連動するようにボランティア個人の住宅を安全なたまり場として開放していることである。この官民の連携はあまり日本では前例を見ないものであり、この意味から多くを学ばねばならない。
まずは行政の施策である公園づくりに、市民の立場から主権者の立場から参画していったことである。従来日本では行政施策は、行政の側から一方的に決定されあてがわれるものであり、住民が要望を出し住民の要求として実現していくことは非常にまれなことであった。この公園づくりにおいてはつくる段階からの参画が完成後の支え手意識につながっているのを見ても、新しい動きのモデルとして注目したい。
次には核になる人材の存在である。この場合は障害児の発達や障害児援助についての専門知識を持った柴川さんなのであるが、一人の専門知識や経験を持った人材が最初はボランティアであっても、その力と知恵を提供することによって事態が動き始める。そして一人では動かせないがその人を取り巻くボランティアの層があれば、不可能も可能になる。柴川実践においては視覚障害について勉強した女性学級の元メンバーたちがグループとしてボランティアを担っていることが非常に大きな役割を果たしている。カナダではほとんどのファミリー・リソース・センターがボランティアの動きをのちに公的な財源が支える形で発達してきたのだった。
これまで私たちは行政の責任、公的責任を重視するあまり、ボランティアの持つ豊かな発想力を積極的に生かしてきたとはいえない。だが柴川実践に学び、豊かな可能性を秘めたボランティアの力を、特に活動の発端、契機のところで生かし、それを拠点に公的な力を引き出していくべきではなかろうか。
また、そうして動きだしたところに、他の各分野の専門知識を持った者たちが、その立場を越えて援助の手を差し伸べて来ることが特徴的である。むくどりホームにも実に様々な専門家たちが関わっている。中には定期的に毎回のように通って来る人もあれば、そうでない人もあるが大勢の専門的な英知を集めてこそ手探りの実践は多面的なふくらみも出るし正しい方向を見いだしてもいけるのである。
次に子どもを守る場、子育て支援の場というのは、柴川さんの個人宅の中という空間に限られるものではない。町内会全体が子どもの問題に関心を持ち力を出し合う気風のある、そのような地域の力を掘り起こさなければ、むくどりホームのような実践が成功しないであろう。
また逆に言えば、掘り起こし、組織することにさえ成功すれば町内会にこれほどまでのエネルギーが存在するということの証明でもある。
また、学校教育との関係でいえば、近所の幾つかの学校の中に特殊学級を置いているものもあるが、大半は特殊学級のない学校である。その子どもたちは公園で初めて障害児に出会うのであるが、ここでの出会いによって障害児理解の教育がインフォーマルながら急速に深く進んでいく。学校教育の中で公式にこの公園やホームを見学に来るなど、ここの存在が学校教育を豊かにする役割を果たしつつある。このことも大きな教訓である。
また、ある重度の障害児を持つ母親は書いている。その母親は障害児だけの集まる狭い世界から、むくどりホームに来ることによってひとまわり広い人々との出会いが親にとっても子にとってもあるのではないかと期待して遠くから通ってきていた。初めて子どもを健常な子どもたちの中に入れた時に、わかっていたこととはいえそのギャップに母親がまず戸惑い、落ち込んでしまった。また他の子どもたちの元気の良さ、勢いの良さの中でその子は圧倒されて泣いてばかりいた。
彼女は手記の中で「最初はそこに行くのが苦痛でした」と書いている。「周りの騒々しさに怯えて、まりもはただ泣くばかり。こんなところに来るんじゃなかったと思うくらいつらい思いをしました。それなのに来るのを止めませんでした。その理由はホームに来るとそこの方々がいつも暖かく迎えてくれたからです。涙と鼻水とよだれでぐちょぐちょになっているわが子を、服が汚れるのをいとわず膝に抱きあげ遊んでくれる。そういう人たちがここに来るといたからです。それで私は辛かったけれどここに来るのを止めなかったのです。」と書いている。
そのうち子どももこの場の零囲気に慣れ、言葉は喋れないけれど普通の子どもたちとのやりとりを楽しむようになっていった。この子が泣いていると他の小さな子どもが楽器を渡してくれようとしたりしていた。その時にこの母親はこう思ったという。「そうか、皆まりもの味方だったんだ。大きくなったら障害のある人の手助けになる人たちなんだ。とそういう思いがその時、ふと頭をよぎったんです。すると急に子どもたちがいとおしくなり感謝の気持ちが沸いて来ました。子どもたちありがとう。」
このようにして障害のある子どもの母親にも新しい出会いがあった。そしてここで初めて得られた差別のない世界への安心感やくつろぎ、優しさに触れる中で初めは、とりあえずは自分が一息入れる場としてのむくどりホームであったと思われるが、やがてそのような親同志が仲良くなる。初めは単なるおしゃべりから始まり、共通の関心である子どもの将来のことに話が及ぶのに時間はかからなかった。話し合いを深めていくうちに養護学校を卒業したあとの子どもたちの生活の場はどこにあれば良いのだろうという話に発展し、可能性のある所を見学したり情報交換したりと行動に移っていく。やがては今まだ子どもたちが小学校のうちに親たちの仲間の輪を広げ、将来の子どもたちの居場所づくりのために今から一緒に活動しながら資金づくりもして行こうというようになっていった。ここにも人々の援助を待つだけの母親から、仲間を得たことにより仲間との相互性の中で一人一人に子どもの将来のために立ち上がるパワーが高まっていく姿をみることが出来る。
以上のように、この一つの実践を分析してみるだけでもカナダのファミリー・リソース運動の歴史から学んだ諸原則の実に多くの項目が当てはまることがわかる。一人あるいは、二、三の心ある人たちが動きを起こすことによって、それまで思いもよらなかった地域のもろもろの力が集結され、地域全体を子どもに優しい、子育てに優しいものへとつくり変えていくという大きな可能性を示唆していると思われる。
二節 共感の根っこ
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あとがき
カナダに最初に渡ったのは一九八六年だった。その時はまだ研究テーマも絞り切れていなかったが、支え合いの子育てという点で日本とはとてつもない隔たりを感じたものだった。
その時を含め前後二回、カナダ政府の研究費給付を受け、さらに文部省の在外研究費(短期の研修で三ヶ月)の滞在費をもらい一人でカナダを歩き回った。最後の二年にはトヨタ財団から研究費助成を受けることが出来、私を含め七名のメンバーで二度の訪問を果たすことが出来、これも有り難いことだった。この成果も他の五人のメンバーによってそれぞれの専門分野から形をかえて報告されていくはずであり、期待してほしい。
そのうち徐々に一緒に行きたい人なども増える中で、研究者や保育関係者など十名内外の人たちと共に出かけることも増えていった。
一人であちこちを歩き回ることにもおもしろさはあったが多勢の仲間といくことによって当然一人の時より幅広い見方が出来、違った感想を持つ人との意見交流が出来たりして私には大変におもしろく有効であった。そうした交流から生まれた共同の労作の一つが『サラダボウルの国カナダ−人権とボランティア先進国への旅−』(ひとなる書房1994年)であった。私一人では仕上げることなどなかったであろうし、また五章一節で扱った「むくどりホーム」の柴川さん自身、あの旅から得た印象が決定的であって、それがあったればこそあのホームづくりに結実していったと繰り返し語っているところでもある。:
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